英語ができる人は、2つに分かれると思えてならない。
1.日本のみで、外に出ることがなく、外国の先生に来てもらって、日本で英語を教えてもらう純日本人系
2.外国にいったり、住んだことがあったり、人と付き合いが母国の人より多くて、そんなに努力しなくっても、昨日の世界で流行っているチャットツールで、身も聞きもしない人との会話を、顔を見ることがないので安心し、なんでも心の底から話し合った後、翌日実際に会うと必ず言える母国の人との会話で自然に日常会話のキャッチボールとしてその話した内容のことを、異国の国の言葉であるにも関わらず、自分のことのように、話した人の紹介や、その人を、勧めることができる、対してコミュニケーション能力にそんなに障害を持ったことのない人。
私は翻訳はみんな周りから無理じゃない?と言われるが、周りの人もかなり苦労した過去があると見えて、あまり勧められることはないが、たまに、人に、会話したことを話さずして、突然、思い出したかのように話をしたら、初めて聞く人には、新鮮さと驚きを隠せないようで。
そうすると、翻訳や通訳の仕事は、他人の為に働けるし、報酬を得なくっても、周りを見て、みんながとても喜び、満足感を得たのに等しいと感じると、その人の欲求を知らないが、満たせたと感じ取ると、初めて人の役に立ったのではないかという、満足の味を覚えるに至る。
マスターは喋らないが、マイスナーや、マイスターは、喋る(喋らなければ、通らない)というのは、イタリアのウィッフィ美術館で、レオナルド・ダ・ビンチが、ミケランジェロやラファエロに教えた事で有名になった言葉らしいが、確か、ラッツィンガー元枢機卿も、同じことを言っていたような予感がする。
昨日、父に、帰国子女の祖母が、伊豆の踊り子を読み終わった感想を目の前で日本語でここで、しゃべりなさい、と言って35分くらい話したと言ったが、父は「あのばあさんは、日本語を知らんからね。」というと、「そうかな?帰国子女だから?」と答えたが、雪国は知っているようで、伊豆の踊り子を知らなかっただけかもしれないと、若干思った。