1979年に、アメリカのテキサスのダラスの5936部屋に移住した時に、隣に、離婚しそうな家庭の奥さんと娘さんと息子さんが住んでいて、Welcome Partyじゃないけど、今日息子の誕生日なので、御一緒にお祝いしませんか?という歓迎を受けて、早速お隣さん一家と仲良くなった。
娘さんは、弟さんのことがあまり好きではなく、誕生日パーティなのに、モルモットを口に引っ掛けて、アパートの壁で、むしゃぶりついていていた。結構野生動物が好きみたいで。
口から血を流す姿は、結構おぞましかったが、空港で購入したバービー人形を渡せば、私みたいに女らしくなるだろうと、渡そうとすると、「私のもの!お母さん、後で入る!」と人形を掴んで部屋に入った後、おもちゃ箱をひっくり返して、自分の持っているラメの服を着せて、「ほら。」と渡されたので、さっきの血吸いのお姉さんとはえらい違いだな、と思いつつも、その日からそのお姉さん(15歳)は、私のベビーシッターとなった。会社を作るとか言って。
最初、そのお姉さんは、日本人だとかいう女性を雇って、私の面倒を、中学校に通っている間、見てくれないか、と、そっと頼んだが、帰ってくると、あれだけ食べるなと言い聞かせておいたアイスクリームを私が毎回食べるので、自分の分がなくなったとかで、ベビーシッターに不審なものを感じ取っていた。
そういえば、あまり、きちんとしたものを4歳から5歳まで食べさせてもらったという覚えがない。食事も、ツナメルトを用意してくれていたのだが、食べたいとあることを気がついた時には、家にはなく、同時にベビーシッターの影の姿もなかった。
以外に痩せ細っていたので、隠しカメラと盗聴器を父が、大学から帰ってきて、隣の家に仕掛けると、ベビーシッターの女性は、私をアングルケンの椅子に縛り付けて、自分はツナメルトを食べていたり、家にツナメルトを持って帰っていった様子で、お隣のお姉さんは、授業の後、バイトで、バーガーキングで購入したものを次から次へと私に与えず、日本人女性が持って帰るので、気がついた時には、出ていけ、と、大声で怒鳴って追い出した上に、よくよく吐き出す言葉を聞いてみると、中国人だったとか。日本人と書くと、信用度が増すとかで、偽ってのアルバイトだったらしい。
母親はリウマチたったので、隣のおばさんの娘さんが、少し怖かったらしく、断ったら、南部の人って怖いんでしょ?とかで、否応がなく任せっきりだったのだが、事実を知って、「あっ、そう。」と答えた翌日、従兄弟のお嫁さんである家政婦の経験がある看護師さんに国際電話で相談して、オムレツを作る様子をお隣のお姉さんに見せたら、母を親戚でない人と、ずっと思い込んでいたお隣のお姉さんは、本当に日本人って、こんな感じたったんだ、栄養素って何?と、出された食事を初めて見て、しばらくすると医師の父に栄養学を学ばせてくれないかと、5936に電話をかけたり、家に来たりして、結構家庭教師的なことを父は無償でやっていたとかいう。報酬はリブステーキで、テキサスの肉をそれから好きになったとかで、初めてテキサスの料理に触れたとかで、逆に栄養学を当時のお隣の娘さんの、おじさんから習っていたので、大学院のレポートも充実してきた頃には、お隣のお姉さんは、隣のお兄さん(父)のように大学に行くとか言い出して、ブラウン大学を受けに行ったら、法学部だけ受かったと、キドニービーンズを無料でもらった。
このお姉さんのお友達は、結構後から有名になった人と、そうでない人と二手に分かれて、たぶん後者の方が、映画になったと思う。犯人が出入りするので、隠しカメラも盗聴器も付いたままだったから結構細部まで表現されていて、私も思い出す事が多かった映画だった。
確か、1981年から1982年にかけて、私は南部の白人しか行かない学校に入学したので、近所の黒人や、入らないでパブリックのスクールに行った友達からは、結構日本人学校も土日に行って大変だね、と、身震いされたが、親たちは、すごいことだ、ということで、友達になることが許された。
この頃、まだ、司法がしっかり南部には定着しておらず、銃の保持など持っていて当たり前、で、とにかく怖がらぬように、"Be brave"と、デビークロケットの本とか、カウボーイの映画など、見せられていたように思う。トム・ソーヤの冒険が南部の話から聞いていて、いかに、オズの魔法使いのように、虹の下の金の壺を見つけるかということに遊びを見出し、何かしら発見があった日には、近所の子は今日、金の壺を、見つけてね、と、両親に話している姿を見て育ったので、結構楽しかった。
私も、学校に行けば、ペンと紙と物差しで授業を受けていたので、パブリックスクールほど夢のある教育を受けなかったものの、宗教的にはしっかりしていた白人しか行けない学校だったので、習ったことも少しレベルが高く、怖かったものもあったが、ガールスカウトや、ボーイスカウトのブラウニーの話になると、「僕と一緒だね。」とアフターファイブには、近所の5936の周りの子たちと話をしていたので、コミュニティも日本人村や日本人学校よりも、大きくなり、できるだけあの子と遊ばないように、と、いう偏見の目もなく、ハロウィーンには、平気でお菓子をどこの家からももらえるビギナーズラックに、ありつけていた。
トム・ソーヤが好きな子には散々いろんなところに連れて行かれて、黒人の子と、ブラウニーで、高齢者に介護でピザなどを配ったり、ピンクグレープフルーツを売ったり無償で提供していたりすると、信用度が増して、午後20:00以降外に出ても神父様からお達しがないほど自由な時間があったので、両親があれだけ外に夜出るなと言っているのに、お前はなんで言うことを聞かない、と、責められれば、自由度を増すためにますます外に出て、外の空気を吸うことが多くなっていた。
父は大学院の担任の教授に、娘が言うことを聞かないと、教えを請うこともあったが、逆にその英語が子供を持っていない担任の教授には、面白く聞こえたらしく、テストの模範解答にするからと、英語力だけは、陳情の件に関してはAだったらしく、研究内容は私は幼かったので全ては言い尽くせない。
今でも耳に残っているのは父の英語の説教である。
父は地獄耳だったので、やるな、ということは、教師のいうことは絶対だというイディオムにも表現されている通り、言うことを聞いておけば良かったという出来事が、この映画の発端だったと思う。
あまり外に出すぎて、死刑囚を見てしまったという結論なのだが。
ピザをいつも通り配り終えて、男の子3人で仲良く帰ったところ、隣のお姉さんのお友達に呼び止められ、一緒に乗っていたお兄さんと、「家まで送ってあげようか?」と言われたのを聞き取ったダラスに長年住んでいる方の子が聞き取って、乗ろうよ、と、言われたところ、デビーの車だったので、乗った。
なんか、反対方向に行くな、と思ったが、車はホワイトロックレイクの方に向かい、私有地が多かったいい加減な林の中で、三人降ろされ、湖のほとりの月光でもみて、ピザを配ったほてりでも冷ましなさい、とか。
なんか、デートしているよ、と、私が2人に言ったのだが、黒人の子のほうがしっかりしていて、これは、家に帰ったほうがいいかも、プルルと、震えたところに、2発の銃声が聞こえたのである。
カラスが鳴かない、ということに気がついたので、すぐに殺人と、気がついた。
Ralfが、結構酔っていて、白い服が入ったカバンを見つけたのだが、白人の男の子が、金色に微妙に反応し、洋服を見ると、毎日バービー人形を観ていたせいか、服の裾のまつり縫いのところが剥げていて、安全ピン2個で止まっていたのを見て、よほど急いでいたのかな?と、寝転んだ2人を見ながら、そういえば、お隣のお姉さん、プロムの帰り、デートするからって言っていた事を思い出し、見えない暗闇でよくよく月の光で見てみると、全部裸の女の人と、後頭部に狙撃の跡を見出せた男の姿があった。
ヒヒヒと笑う声がしたのだが、銃声で近所の人が通報したので、一人捕まり、ralfは逃げていたように思えるが、2人共捕まったような覚えがある。かなり後だが。
服の安全ピンから近所のカトリック教会の夫婦の娘さんとわかり、なんか教会に行くと言っていた割には、めかしこんでデート行っていたなと思い出した時には気が付かない。
コップがきて、"Kaori,did you watch this?"と言われた時には、べっとりと血がついた顔と腕で、見出せたので、ハロウィーンのゾンビより恐ろしく、ギャーと叫んだあたりで、ウイッター(目撃者)と断定された。
歯が飛んでない、とか、変な微妙なことを言っていたような気がするが、「気にするな。」と、逆に言われて落ち着いた時には、"I am proud of you.You didn't put your legs on a fire."と婦警に言われ、"Why not?"というと、"You didn't put your cloth off." と言われ、そりゃ、服を脱いだら、ヤバいっしょ、と思いつつも、翌日学校に行けば、担任の教師のシスターから、「犯罪者を見に行かなくっちゃ。」と告げられ、"Where are you going?"と聞くと、"To the jail,like a superstar."と言われた覚えが。
"Like a pistles rock."と反射的に思ったのだが、"Ronald Reagan?"と、ふざけると、"No,Elvis."、とかいうんで、飴ちゃんを渡された時には、"Presely?Would you do me a favor?How can I separate this class?"と、言うと、"You,madam."と言われたような覚えが。いなくなるとクラスの15人の男子が、beatlesのhard days nightを歌い出すので、"kind of jailhouse rock."と、"sit down please."と言われたクラス委員長の名指しを実行すれば、"where's sister?"と、シスターロザリンドの名を挙げてのブーイングを受け、"she is out for jail."というと、"with who?"に、"bible."と答えると、聖書の一節を完璧に覚える課題を課せられた男の子たちと女の子たちは、帰ってきたら、テストだ、と、それは静かになったので、この時のシスターの仕事と言えば、午後3:00まで帰ってこなかったから、多分あの、話の事件の犯人の死刑囚のところに改心するように行ってきたんだろうと、映画を見て合致する点があったので、続きを見ていた。
小学校の先輩は、シスターが、死刑囚と出来ているので帰ってこないんだ、と、ずっと噂をしていたが、結局は噂でしかすぎず、帰った時には、エルビスの牢獄ロックより悪い連中をどうやって治めたのか、と聞くと、チョコレートチップを渡しながら、赤髪の前髪よ、と、ベールに隠しきれないアメリカ人にしては珍しい前髪を見せて、「不良でしょ。」とか言うんで、あぁ、同業者かと思わせたのね、と、理解した。
さて、翌日の授業は、ルイジアナ州が昔流刑地で、今や死刑囚がつどる刑務所があるところ、と、習って、位置を確認し、死刑囚の刑務所のレベルをみんなで見ていたところ、いろんなものがあるとか言うことで、事件の一連を公立の子と見ていた私は、目撃者ということで、毎回陪審員のように法定に連れて行かれた。意外に法的用語をリスニングで聞いて覚えたのも7歳という意外な年であったので、高度教育にしちゃ、大変ね、と、思われていたのだが、シスターの話によれば、犯人の家族と会うと、面会を拒否され、あっても、身内の不祥事で、ついてきたマスコミのネタにされていたことを恥じており、シスターにも最初心を開かず、被害者の家族に会えば、あまりにも親身になって、話を聞くので、てっきり味方についてくれると思っていたら、そうでなく中立の立場をシスターに取られてしまい、追い出されたりして、加害者に会えば、シスターだと言っているのに、付き合ってくれだの、カウンセリングをやめないでくれ、だの、せがまれて、自分の味方は聖書しかないと、学校に帰れば猛烈に精神教育を受けていた。
法定で、人形のように座っている私は、何のためにいるのかといえば、神の話を信じないので、天国には子供のような心を持っている人だけが入れるという聖書の教えを加害者に見せるために、座らされていたようであり、その効果が、幼い子供が法定にいるということだけで、犯人は身震いするほど怖がるらしい、とかいう効果があった模様で、いつも、神父様の後ろに座らされて、事件を見ていたよ、と、死刑囚を見ているうちに、死刑判断が下ったということらしい。
この事件にシスターがいたということは、意外に法定の全員、弁護士から、関係者まで、死刑にすることを本当は聖書の教えに反するから、嫌なのだが、外では、犯人を殺せとか、デモを行っているのに、言葉では、死刑にさせる責任は被害者の俺たちか、と、自覚していくうちに、悪に手を染めたくないということから、シスターは、死刑は殺人だと悩みだしたり、殺すことは果たして最善なのか?と、被害者家族が悩んでいくうちに、殺す事を余儀なくされた弁護士が、「お前、やるか?」とお鉢が回ってきたところで、私が「何をするの?」と聞いてきたことに関して全員が、驚いた様子で、殺すことに違和感はないのか?と、心のなかでは思っていたらしいが、逆に言うと、この事件は白人の問題であったので、黄色人種の私が7歳だし、何もわかってなかったということで、死刑のボタンを押すことに違和感はないなら、じゃあ、やらせてあげようか?ということで、死刑囚がいるルイジアナ州まで連れて行かれた後、独房から出てきた死刑囚が、Dead man walkingと、警察の人い言われて歩き出し、シスターロザリンドが、手をかけてあげていいか?との答えに、コップがyesと答えたところで、正式に殺されるんだなと理解したのは映画の描写のとおりだったと記憶しているが、確かに廊下を歩いているときに、レッドカーペットでなくって、残念だねと、思った覚えもあった。
死刑場で、女医さんが、カウンセラーを女性が初めて行ったことから、シスターロザリンドのフォローにも回っていたのに、本人が、死刑にさせるのは、私とは言えない、機密で内緒にしないといけないので、と言っていたのにもかかわらず、肺をchokeさせるCylinderが、lungを傷つけるから、呼吸ができなくなるの、と、一通り、教わった後、覚えられないと、メモがない死刑場で、文句を言ったら、これに耐えたら、女医になれるから、ボタン3種類、シリンダーの液体が最後まで落ちたら一本ずつ追加して全部のボタンを押して有効にさせるの、勇気出して、"Be brave."と一言言われて、弁護士の押すようにという合図を受けて、ボタンを3種類全部押したら、部屋を出ていくように言われて、背が低かったため、誰が押してかわからないようにしてあり、シスターロザリンドが、別室で死刑囚の目を見て死ぬと判断したところで、隣にその瞬間座ったような気がする。死刑囚の目は、一旦目を閉じるのだが、シリンダーが肺を犯して呼吸不全にしたところで、弛緩剤が一気に入るわけだから、死後硬直の前に目が開くので、こちらとしては7歳なので、まだ生きている、と、誤判断をした上での退席であったが、あれは死んだんだよ、と、おかえり、と、父の教員が待っていたところを、待ち受けられ、どうだった?と聞かれて、肺の英語の名前を聞き忘れたが、心臓の脈はなかった。死刑は実行されたよ、と、報告の後、ほう、それで、怖くはなかったの?と聞かれて、シスターロザリンドにもらったチョコレートチップのクッキーを頬張りながら、終わったし、でも、自分が死刑囚の立場だったら、嫌だね、と、クレームを付けたところ、全米で、死刑は、やっぱり反対と、やめたほうがいいという流れになり、なんだかんだと言って、死刑の話になれば、反対側に回るようになってきた。
話は死刑囚の話なのだが、残りの目撃者の2人はきちんと成長し、子供もいるみたいで。
大学では、動物というのは、子供がいなくなると夫婦は自然に離婚するということの自然現象を日本で1回生の時に習うのだが、結構キリスト教側からしてみれば、怖いことであり、だからといって、何事も許すことは、後で波紋を呼ぶことになるので、映画を見るたびに、シスターが高齢で、天寿を全うすることをこの世からの逸脱、つまり、自分はベッドの上やいろんなところで高齢のため、死に怯えていることを自分自身がdead man walkingだと、普段からおっしゃっておられたが、「なにいうてんの、そんなことないやん。」と毎回返事をするたんびに、「そうかな?」と、けっこうシスターも長生きしている。
学校の先生は、外国で、一通り学び、先生として雇用されているので、入学した当時は、あの頃の先生か、と、違和感なかった。
どうかすると、映画をやるみたい、と、メッセージをよこしてきた、シスターに人生を左右されているみたいなので、きちんと言うことを聞いていれば、道をそれることはない。
死刑だとか、公開処刑とか、ニュースで平気で使うところもあるが、私も宿題を忘れた時には、death penaltyとは、よく言われた。
普段から他人が言われるのを聞くと、死刑囚の死刑の時のボタンを押した思い出が思い起こされるので、私は結構嫌だ。
死刑囚からしてみれば、7歳の子供にボタンを押させることで、躊躇した時点で、自分は助かるんだという期待感を持っての容認だったようだが、割と私があっさりと踏み絵を踏むようにボタンを押したので、本人たちは死んでいったと思う。
ところで来月child abusementのテーマで、子どもの拉致に関わる"sound of freedom"という映画が朝日会館で上映されるとか。(神戸)こっちも、日本に帰ってきて、拉致に遭ったことがあるので、是非映画は観てみたいような気がする。